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「8月6日」 namikicafe 2019年8月6日

「8月6日」

広島は今日で、74回目の「原爆の日」を迎えた。

平和記念公園では午前8時から平和記念式典があり、被爆者や遺族、安倍晋三首相らと各国代表が参列し祈りをささげた。

 

私が洋次郎と出会ったのは共通の友人の結婚式。

たまたま隣り合わせになったのが始まりだった。

気さくな感じで、いろんな話をした。

洋次郎とはちょうど’ひとまわり’の歳の差。

それから縁が切れることなく、互いに紐を手繰り寄せるように近くなっていったように思う。

洋次郎が主催していた毎月6日の「原爆の語り部 被爆体験者の証言の会」にも行けるときには足を運んだ。

「原爆の語り部 」は2006年2月より、バー スワロウテイルに被爆体験者を招き、その体験談を本人の生の声で聞く会で、洋次郎は毎月6日に欠かすことなく開催していた。

単純に換算しても、バーを経営しながら11年以上、百四十回余り開いてきたことになる。

単に「自分が聞きたかったから」といっても、欠かさず継続することは並大抵ではできない。

 

洋次郎と向き合って話をするのは、なぜかいつも「波輝カフェ」だった。

時には、深夜まで話が弾んだこともあった。

かなり経って、なぜ「語り部の会」をやり始めたのかも洋次郎の口から直接聞いた。

スワロウテイルにも、ただの客としてたまに行ったりした。

とりわけ会話がはずむ相手ではないが、洋次郎と一緒にいると何となく居心地が良かった。

病気がわかる前の年の9月に会って、次に洋次郎と会ったのは4か月後の入院した翌日の病室だった。

みやさんから『洋次郎が・・・』と連絡があり、すぐに洋次郎の所へ向かった。

病室の洋次郎は、普段と変わらないように見えた。

ちょうど高橋さんが撮ったこの写真が、その時の洋次郎だった。

変わって見えたのは、ベットの上にいることと、声が少し出にくくなっていたということだけだった。

たわいもない話を少した後に、

「今まで走りすぎたから、少し休憩しなさいというご先祖さまからお知らせが来たんじゃないの。」と話しをすると、理解したような笑みを浮かべて

「ちょうど今、語り部のことで本を書かないかという話が来てて、なかなか集中して出来なかったからベットの上でじっくり原稿を考えることができそうです」と話してくれた。

それがこの本のことだったとは全く想像もしていなかった。

病気を知ってからは、毎週会いに行った。

洋次郎は入退院を繰り返していたが、少し安定していた時期には波輝カフェに足を運んでいた。

私が波輝に様子を見に行った日は、洋次郎と洋次郎のお父さんとで、入口の大きな桜の木にまとわりついていた蔓を取っていた。

動くような身体の状態ではないはずなのに、洋次郎は普通に体を動かしていた。

波輝に来てくださるお客様に、もうじき花を咲かすきれいな桜の木を見せたかったのだと思う。

カフェの2階で過ごす時間の方が多くなってからも、洋次郎は波輝で過ごしていた。

波輝にいることがとても大切だと感じていたのだろう。

波輝がとても好きだったのだろう。

少しでも多くの時間を、大切な人の傍で過ごしたかったのだろう。

そう感じた。

 

再び病院で過ごすことになっても、洋次郎は波輝カフェだけは営業を続けて欲しいと、みやさんに伝えていたそうだ。

こんな状況になっていても、洋次郎には波輝を続けることに深い想いがあったのだろう。

みやさんは、本当は何より洋次郎の傍にいたかったと思う。

ずっと看病していたかったと思う。

それでも、みやさんは洋次郎の意に沿って波輝カフェを続け、自宅にいる時も病院にいる時も、毎日洋次郎の元から通い続けた。

・・・・・

洋次郎の病気がわかってから約半年後の7月3日、洋次郎の魂が肉体から離れた。

私たちが、何も知らずに病室の洋次郎を訪ねた数十分前のことだった。

・・・・・

洋次郎のお父さんから葬儀を頼まれた。

突然のことだった。

仏教の世界では、「魂」と「肉体」が離れたことを「往生」という。

「往生」という文字のごとく、「生まれ往(ゆ)く」ということだと師匠から教わった。

つまりお通夜とお葬儀は、消滅して全てが無くなるのではなく、「次に生まれ往くために、今世を旅立つ」ための儀式ということだ。

 

多くの仲間や友人が洋次郎を見送りに来られていた。

私は洋次郎が次へスタートをきる儀式を担った際中に、不覚にも涙が溢れてきた。

声もうわずってしまうほど込み上げてしまった。

・・・・・

病床で綴っていた語り部の本、

『カウンターの向こうの8月6日 広島 バー スワロウテイル「語り部の会」の4000日』が光文社からが出版されたのは、洋次郎が往ってわずか17日後のことだった。

「あとがき」で洋次郎の入院したての時の心境がわかった。

あの時は心配させまいと、逆に気遣ってくれていたのだろう。

 

半年後の12月、長年続けてきた「語り部の会」を評価され市民栄誉賞が授与された。

翌年、広島本屋大賞も受賞した。

「オレ、そんなガラじゃないんっすよね~」

洋次郎の声が聞こえてくるような気がした。

洋次郎がこの本のあとがきに綴っていた、被爆者の生の声から得たことが「語り部の会」を続けて

これた理由のひとつでもあるだろう。

・・・・・

あれから2年が過ぎた。

心の中では何も洋次郎との関係は変わっていない。

むしろ深まっていると言ってもいいくらいに思う。

ただ、前と違うのは姿が見えないくらいだ。

波輝の2階にある、洋次郎の写真の前で目を閉じると、目の前に来て話をしているように感じる。

洋次郎の写真の前で食事をとると、一緒にテーブルを囲んでいる気持ちになる。

そんな時に心の中で語りかける。

「洋次郎。洋次郎の想いを繋げてくれている人が、たくさんいるのが良く見えているだろ。 想いを汲んでその人それぞれが考えて行動しているのが。 こっちにいる人たちは洋次郎が見えないからね。」と。

姿や形が見えなくても存在しているものは世の中たくさんある。

だからいまだに繋がっていることを信じる。

 

8月6日に近くなると、こぞって平和を唱えはじめる姿を見かける。

「平和」とはどういうことなのか?

皆、「平和」という状態にそれぞれの思いがあるだろう。

難しく考えるより、洋次郎が最期に残した「今ある身近な幸せに気づこう」ということではないだろうか。

世の中の皆が、決して自己中心的にならず、小さくても、ほんの少しでも、今、目の前にある幸せを見つけ出すことをすれば「平和」になるんだ。

洋次郎はそう伝えたかったのだと思う。

2019年8月6日、波輝で蝉の声を聴きながら洋次郎を想った。

そして現在も「語り部の会」は続いている。

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